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日本の女子プロレスの誕生と歴史/ビューティーペアとクラッシュギャルズ

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プロレス

こんにちは!kamikamiです。

今回のテーマは、

『女子プロレス』

です。

いまの女子プロレス界は団体も多く存在し、各団体ごとに個性を持った興業スタイルで多くのプロレスファンを楽しませてくれています。

「女子プロレス」はどのようにして生まれて発展していったのでしょうか?

どのような歴史で発展し、そしてどんなレスラーが女子プロレス界を駆け抜けたのかを紹介ていきます!

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女子プロレスの発祥

日本での女子プロレスの始まりは1948年になります。歴史的には、力道山がプロレスを始めるより前に興業としてスタートしています。

はじめの形態は現在の形態とは大きく違いました。キャバレーやストリップ小屋で酔った観客相手に見せるショーだったそうです。ルールも現在とは大きく違い、対戦相手のガーターベルトを奪い合うルールだったそうです。お色気要素を意識したもので「キャットファイト」に近い興業スタイルだったようです。

キャットファイトとは、女性同士の殴り合い、取っ組み合いのケンカを見せる興行です。

また、体が極端に小さい男性の「ミゼットレスラー」といっしょに興業をおこなっていました。(ミゼットプロレスは私は見たことがあります。コミカルな動きで試合と試合のあいだのアトラクションのような感じでした。

日本人初の女子プロレスラー登場

日本人初の女子プロレスラーは、猪狩定子という女性でした。

後に女子プロレスの殿堂入りをしました。

全日本女子プロレス旗揚げ

1968年に「全日本女子プロレス」が旗揚げされました。

この時代は、いくつものプロレス団体があったそうですが最終的には『全日本女子プロレス』が勝ち残り、団体がまとめられたそうです。

その全日本女子プロレスでは、小畑千代が看板レスラーとして活躍しました。

その後、ジャンボ宮本が「WWWAシングルチャンピオン」として長らく君臨しました。

WWWA世界シングル王座とは、World Womens Wrestling Association World Championship の略です。1937年に創設されました。ベルト部分が赤色だったことから「赤いベルト」と呼ばれていました。2006年に廃止されています。

マッハ文朱(1973年デビュー)は、身長174cmの恵まれた体格を武器に若干16歳でジャンボ宮本を下してWWWAのタイトルを奪取して全国区の人気レスラーとなりました。

女子プロレスラー初の歌手デビューしたのもマッハ文朱です。

ビューティーペア登場

1976年にジャッキー佐藤マキ上田「ビューティーペア」を結成しました。

WWWAタッグチャンピオンの王座に就くなど実力もありました。

さわやかなファイトとビジュアルが女子中高生に人気となり、歌手デビューも果たしました。

「かけめぐる青春」は40万枚のヒットとなりました。

しかし、いきなり1979年に「敗者引退マッチ」で一騎打ちを行うこととなりました。

試合は、ジャッキー佐藤が勝利してマキ上田は約束通り潔く引退しました。

女子プロレスが武道館に進出をしたのはこの時期です。

ビジュアルレスラー登場

1978年にデビューしたミミ萩原はアイドルからの転身という当時は異色の経歴でした。現在では、アイドルからプロレスラーに転身するケースは珍しくなくなりました。

ミミ萩原は、デビュー戦から87連敗という屈辱の記録を作ってしまいましたが、その後タッグチャンピオンまで上り詰めました。

そのあともナンシー久美(1976年デビュー)や、JWPのキューティー鈴木(1986年デビュー)、オーロラクィーン井上貴子(1988年デビュー)はオールヌード写真集を発表してファンの度肝を抜きました。そのほかにアルシオンの大向美智子(1992年デビュー)、全日本女子プロレスの能見佳容(1995年デビュー)がいました。

ビジュアルレスラー同士の対決で歴史に残る試合が生まれました、キューティー鈴木VS井上貴子はビジュアルクィーン対決として注目され、試合は井上貴子がデスティニーハンマーでキューティー鈴木に勝利しました。

進化したプロレスを表現するレスラーの登場

1980年からは、ジャガー横田デビル雅美の対決が人気のカードとなった。技とスピードのジャガー横田とパワーと巧さを兼ね備えたデビル雅美の対決は見ごたえがありました。この時期に長与千種ライオネス飛鳥大森ゆかりダンプ松本が入門しています。

クラッシュギャルズと極悪同盟の登場

1983年に長与千種とライオネス飛鳥が結成した「クラッシュギャルズ」が誕生しました。

プロレス技と空手技を融合した新しいファイトスタイルで破竹の快進撃を続けました。

硬派なファイトスタイルが多くの女子高生ファンを多く獲得した理由でした。

試合のコール時に投げられる紙テープの量は凄まじかったです。

その後、1984年に『ダンプ松本』がヒールの一大勢力となる「極悪同盟」を結成しました。竹刀、一斗缶、ハサミ、ドラム缶などを凶器に使い、悪の限りを尽くしてクラッシュギャルズをおおいに苦しめました。

極悪同盟は入場コスチュームから入場演出までヒールとしてのこだわりを見せ、会場では毎試合クラッシュギャルズファンの悲鳴が鳴り響きました。

第二期黄金世代

クラッシュギャルズと極悪同盟の抗争で日本女子プロレス界は、第二期黄金世代に突入しました。

※私調べとなります。諸説ありますのでご了承ください。

プロレスの歴史と試合形式とルール